投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]


終了

 投稿者:  投稿日:2010年 9月16日(木)18時52分54秒
編集済
   この部屋は、じあん、から外れます。
というのは原因は分からないのですが、管理者本人(わたし)が管理できない
 状態になっています。
いろいろと探ってるのですが、いまのところ不明。

 従って、ここを閉じ(といっても、ネット空間にしばし、浮遊しますが)
あらたに”独り言”として始めます。
  HP、じあんには、こちらは反映されます。以上

  http://6715.teacup.com/hitorigoto/bbs
 

思い込み

 投稿者:  投稿日:2010年 9月15日(水)19時36分42秒
   どうもわたしは思い込みという枠をひとつひとつ、外しながら
生きてきたのかも知れない。
  ひとり、内向していたから、そうなったのだろう。肝心な生育期に。
 しかし、一方では、ひとつの枠を取り払い、自由になってもなんせ、たくさんの思い込みが
あったし、そうするにはそれなりにときを要するので、ついにこの歳になったという次第。
 思えば、詩歌はそのひとつかも知れない。
結局、わたしはその枠を取り払うことに費やされ、終わるのかも知れない。
 やむをえないことである。
まあ、ここまでくると、元来、ひとはあらゆることが可能なのだという確信を得たということを
 戦果として満足することにしょう。

 おのれを知らず、この世を去るものが多いのだから。
 

頼朝と実朝

 投稿者:  投稿日:2010年 9月13日(月)19時52分19秒
    妙なことを思った。
いぜん、読んだ本で、政治家としての力量というので、頼朝、家康、大久保利通
 記憶なんで違うかもしれないが、どこかそういうものを目指して居たかも知れない。
むろん、なれはしないのに。
 いまでも、政治とはそういうものだと思う。

 しかし、わたしはそうありうるだろうか、ノンである。そのことをしっかり
刻んでおくことである。
 成れぬとしても思いを持っていれば同じなのだから。
 

本質

 投稿者:  投稿日:2010年 9月12日(日)20時07分20秒
    ふぃと思った。
 詩歌であれ、ようは本質をつかむことかなと。
   斉藤茂吉の実相観入というのも、要はそういうことではないだろうか。
 そうなら、わたしが求めてるものとも合うということになる。
  なんとなく、嬉しい。
 

遠回り

 投稿者:  投稿日:2010年 9月11日(土)20時19分23秒
編集済
   ずいぶん、遠回りしたな、と思う。
しかし、わたしには必要なプロセスだったのだろう。
   いまの時代はいい、幻想かもしれないが時はまだある。

 しばし、感性の世界を探ってみようと思う。
愚かにも短歌を始めたのもそうのひとつ。遊びではあるが、真面目なものである。
  いぜん、他の方にアドバイスした。俳句と短歌は、似て非なるもの、二兎は
 追わない方がいいと。じぶんでそれを破ろうというのだから、大きな矛盾である。
なぜかというと、わたしもどうも両生類のような対極のものが内在する。
 ことばの遊びではない。そして、もうひとつ。
 どこか感性を殺して生きてきたようにも思う。
悪いことのように、じぶんから消し去ろうとするかのようにである。
 誇張された表現であるが、そんな気がする。
だから、いままで苦しかった。
 しかし、感性一方へ舵を切ると、一方が不満を持つだろう。
だから、試してみるのである。巧くいくかどうか、は問題ではない、試すことに
 意義がある。
俳句と短歌との比較ではない、そうではないが、短歌はより抒情的と、浅見だと
 思うがそう感じている。
少し、じぶんの感性を出してみたいのである。
 ただ、そうは言っても、巧くいく保証はない。俳句のとき、3年たってスタートライン
と言った、で、いまもまだスタートラインにある。
 そうすると短歌は、あと3年でようやく、スタートラインである。
いまは見習い中だから、たどたどしい。70歳近くにようやく、人並みに歩き出そうと
 いうのだから遠大である。

 まあ、どっちにしても楽しめばいい。
 

不満

 投稿者:  投稿日:2010年 9月10日(金)21時44分13秒
編集済
   つまり、勤めの頃の話である。
いや、そんな古い頃の恨みをいいたいのでは無論ない。
 なにを不満と思っていたのか、そのひとつが感受性と関係があるなと
思うからである。
 個々にはいろいろとあるが、根底には多くの社員の感受性のなさかも知れない。
いや、上に行けば行くほど~

 仕事を円滑に行うには、人間関係がスムーズにいかないといけない。
とくに上の人間はそういう配慮が大事である。ふつうには、円滑とまではいかないまでも
 なんとか流れている。
ところがそうでもない人間も多い。
 よく言うのだが、面従腹背というのも、上層部が部下のこころを掴んでいない
からである。
 人間だから、だれにせよ、完璧にはいかない。それはむろん、わたしもそうである。
問題はそれに気づいているか、である。とくに経営者は~

 わたしは流れをよくしようと思っていたことは確かである。
よく飲んだのにはそれも含まれている、無意識にも。
 仕事のすべてだというのではない、無論である。しかし、そこが巧く行かないと
いくらいいものもが出てきても、台無しである。
 それでなくとも、難しい指示もある、下の人間には理解しがたいものだってある。
そんなとき、人間的な信頼関係があれば、あの人の言うことだから、それに従おうと
いうことにもなる。
 理想論ではあるが、少なくともそういう意識の欠如した上司が大勢を占めると
厄介なことになる。
 俗に言う風通しの悪い、という奴である。

 個々の仕事より、そこに問題があると、ひとの資質へどうしても目が
言ってしまった。これじゃ、ダメだ、ともう先へ期待できなくなった、一因である。
 結局、人間の問題だ、と先へ先へ行ってしまったのである。
だから、いくら、しゃれた経営計画(まあ、マニフェストみたいなものである)が
 あったって、絶対巧くは行かないと。

  KYという、空気が読めない、ということらしい。
わたしは感受性とも関係するのだと思う。
 人間は感情の動物であるということもしっかり、抑えてないのである。
 

ツーレイト

 投稿者:  投稿日:2010年 9月 9日(木)20時51分36秒
   よくそういう声が聞こえてくる。
凡愚とか、取るに足りないとか、そういう言葉の流れである。
  ひとつの道をまっすぐに歩いてはこなかったし、書くことは想定されても
 いなかった。読書も多岐には渡っているが方針がない。専門的でもない。
文芸的な本とは、勤めの頃も含め、ブランクがある。

 だから、これからの人生、書く事にしようといっても、作品とかになることは
難しいかもしれない。
 なんせ、ジャンルがないのだから。
ツーレイトというのはそういう思いの結果である。
 しかし、いいじゃないか、じぶんの今後を支えるためにも書けばいい。

 スーパーで万引きする高齢者にならないためにも?
 

感受性

 投稿者:  投稿日:2010年 9月 8日(水)19時35分43秒
編集済
   もうひとつ、じぶんを紛らわしくした一因は物を感じることを
弱さと思い込んでしまったことだろうか。
 ある部分そういうところがある。感じやすいということは傷つきやすい、小さなことで
動揺するということだってある。
 わたしは克服したかった、弱い自分は男だから、やはり悔しい。

 たぶん、小説とかそういう類を読みながら、そうなろうと考えなかったのは
そこにある。
  文弱の徒という言葉があるんだから、世間でもそう見ているだろう。
だから、小説などなどでも太宰とか、まあ、俳句でいうと、山頭火、方哉など
 避けて読まずに来た。

  幼い頃の怯えも感じやすいものを持っていたからである。嵐の日の窓に移る、木々の揺れる影に恐怖したことがある。
 高校、大学、或いは社会人になり、不思議と体育系ぽい友達を作ろうと無意識にも
していたことを思い出す。
 少なくとも、じぶんの感受性側の人とのバランスをとろうとでもするように。

  昨年、いろいろと行き詰まりを感じているとき、句を作った中に
 なんとなく少年の日の栗拾う、と詠んだ。

  なんせ、世間、そして、家の中で、アル意味で戦ってきた。
ときに非情の決断めいたことも思った。
 勢い、感受性を切り捨てないといけないような思いへ至る。
抱えてると辛いから。しかし、感じる心が死んでいるわけもないから、逆に辛くなる。
だからこそ、いつもわたしは落ち着かない、こころがどこか
じぶんではない、青い鳥はどこ、状態になる。

 ようやく、開放していいときなんだとはっきり意識している。
本来の得手を殺してきたようなものなのだから、いままでの人生がどこか苦しかったのも
頷けるのである。

  いままでを後悔などはしていない。
やはり、ひとはしなやかな強さは持たないといけない。
これからはじぶんの感性をもっと大事にしてゆけばいい。遅いという勿れ!
 

表現者 2

 投稿者:  投稿日:2010年 9月 7日(火)20時47分9秒
編集済
    表現者なんて変なことばである。
考えてみれば、生きてるものはすべて表現してる。
 ただ、ここでは限定して、言葉で表現するということ。

 広く言えば、わたしだっていろいろな意味で表現してきた。
言葉にはしょうとしたかっただけである。
 じぶんの思いを持たず流されながら、折々には我というもだして、最低限の主張をする人もいるだろう。
 忍従の人々というのもそうだろう。それも表現である。
本人が語らないから、作家はそういうひとの代わりに語るのもひとつの仕事である。

 わたしはいちいち説明しないけれど、思い返すと、いつもなにか考えて、じゃ、こう
しょうと動いてきた。
 少なくとも、家をでてからはそうである。
男は黙って、という気分で、いちいち人には言わないだけである。
 いや、どうでもいいことは喋る、決して寡黙ではない。しかし、肝心なことは言わない。だから、皆、突然な印象を受ける。それは秘密主義と言うのではなく、じぶんの行動に
責任持てるのは自分だけだから。
 どんなに親しかろうが、親であろうが、そう。
わたしなりにぎりぎりの選択をしていると思うからである。
エマーソンは似たことを言っていて、じぶんが冷たいのでもないことを知り、納得して
 いる。むろん、ときに相談もするが~

 やりっぱなしで、そうしてきたから、じぶんがどういう風に決断したかさえ忘れる。
  流されてきたかのようにじぶんでも勘違いしてしまった。
 やや受身なところがあり、そう思い込んでもいたから、じぶんの考えを過小評価してきたようである。
 明らかに節目節目に方針を変えたりしてきたことはたしかなようである。
だから、いま、それを確認したりしている。
 わたしは表現をしてきた、巧く行ったかどうかではない。だから、書くことはある。
つねに、物事にぶつかってきたのだから。
 

表現者

 投稿者:  投稿日:2010年 9月 6日(月)20時31分40秒
編集済
    尾崎方哉の本(に限らない、もともと、作家や俳人、歌人も含め)を手にしたのは
表現者というのはどうやってそうなったのか、と思うからである。
 わたしは表現を想定してこなかった。
回りくどい言い方である。
 たとえば、小説を読んでも作家になろうとは考えもしなかったということである。
どのジャンルでもそう。

 学生時代、ごく親しい数人との雑談の中で、文学論みたいなことになった。
わたしは評論を好んだし、結構舌鋒鋭いところがある。
 まあ、そんな口調で話してるとき,
ある男が、突然横から、Fさん、本を書くんですか(つまり、将来そう道を目指してるのかという意味)と言われて、虚を突かれた。驚ろいた、これはほんとである。
なんでそんなことを言うんだ、という感じで受け取った。
でも考えたら、そういうことをよく話してれば、あ、そういう道へ進みたいのかな、と思うのが自然ではある。驚く私が迂闊である。
 しかし、書くと言うことがじぶんのアタマの中になかったのも事実。

  方哉にしてもそうですが、まだ若いときから文集をつくったり回覧したり、投稿したり
とそういう道へ進んだ人の多くは経験してる、皆がそうかは知りませんが。
 わたしはまったくないんですよ、思ったこともない。

  考えてみれば、妙なことなのかもしれない。
たしかに文学部へ入るつもりではなかった、それでも本を読もうと、籠もったほど。
 さらに遡ると、高校の頃に明治の自然主義なんて、古いことを言うのがいて、たまさか
わたしは漱石読み始めだったから、文学論みたいになったことがある。
 たしか彼もなにか書いていたかも知れない。
それでも、雫一滴もじぶんがそういう世界への思いや、書くということを思ったことがない。

  幼い頃、作文で文才がない、と思い込んだこともあるのだが、どうもそれだけでは
理解できない。

 で、思ったのが、じぶんは探してるだけだったんだ、ということ。
小説に、人生を探し、だから、映画にも、そして、だんだんと評論とか、宗教的なもの
 思想(まあ、わたしの場合、めいた、かな)へと広がっていった。
どう生きたらいいか、ということが先決だったということです。
 私のいう行動とは広い意味の生き方。

  ある部分、行動を断念した今、あ、そうか書けばいいんだと思いついた。
 いまはそんな状況だろうと分析している。
 

/29